1963年にピンク映画『甘い罠』でデビューして以来、イスラエル占領下にあるパレスティナのゲリラ闘争を描く『赤軍-PFLP世界戦争宣言』('71)、『水のないプール』('83)、『エンドレス・ワルツ』('95)、『17歳の風景 少年は何を見たのか』('05)と、72歳となる現在まで、100本を超える映画監督作を発表。
日本映画界が誇る鬼才・若松孝二が、全財産を注ぎ込み、渾身の力で撮り上げた最新作が、1972年、日本を震撼させた連合赤軍・浅間山荘事件を描いた『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』だ。
なぜ連合赤軍なのか? 映画に込めた想いを若松監督に訊いた!
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"みんな逃げて撮ってるけど、映画を撮るんならテメェの体張らないと"
ーこの映画を撮ろうと思った理由は?
「そのまま黙って学校に行っていれば、出世コースを歩けた若者たちが、なぜ一銭の得にもならないことをやったのか。その真実をどうしても残しておきたかったんです。『突入せよ!「あさま山荘」事件』って映画を観たけど、モノを作る人間として、あの若者たちがあんな風に“ただ軽井沢の浅間山荘に人を監禁した加害者”で終わるようなことにはしたくなかったんですよ。『光の雨』も『突入せよ!「あさま山荘」事件』もみんな逃げて撮ってるでしょ? でも映画を撮るんならテメェの体張らないと。だから僕の映画ではほとんど全部、実名で描いてます。今は隠れてそっと生きてる人も、連絡が取れない人もいっぱいいるけど、彼らが起こした事件で、事実は事実なんだから。僕だって彼たちのためにどれだけガサ入れくらってるかわかんないんだから(笑)」
ー映画の完成までには大変なことも多かったそうですね。
「お金もないし、こういう企画はどこも乗ってくれないんですよ(笑)。でも僕もどんどん年を取ってきたし、今撮らないと体力的にもたなくなると思ってね。“これを撮ったら、もう映画は撮らなくてもいい!”っていう強い気持ちで、全てを投げ打って撮りました。最後の別荘のシーンでは自分の別荘を使ったし、シネマスコーレとか、東京の自宅とか、自分の持ってるモノを全部担保にして、金を借りてね。僕の子供も貯金を使ってくれって持ってきてくれて。そうやって、みんなの助けがあってやっとゴーできたんですよ」
ー連合赤軍のメンバーのなかに、知り合いがいたそうですが?
「殺された遠山美枝子は、僕が足立(正生)とアラブに行って撮った『赤軍-PFLP世界戦争宣言』の上映運動を手伝ってくれた人だったんです。それが急にいなくなって、後で連合赤軍に入ったことがわかった。僕たちは赤軍とは付き合ってたけど、連合赤軍になってからは付き合いがなかったから知らなかったんだよね」
"俳優たちはみんなで集まって自己批判したり、総括したりしてたらしいですよ(笑)"
ー映画にするにあたって、改めて取材はされたんでしょうか?
「今(刑務所に)入ってるのは、吉野(雅邦)、永田洋子と、坂口(弘)の3人だけで、後はほとんど表に出て来てますからね。ウエヤス(植垣康博)には何回も会ってるし、坂東国男は(クアラルンプール事件で)奪還されてアラブに行ったけど、僕はアラブ赤軍に信用があったから。山荘を占拠した5人の間で、中であったことは表に出さないという約束があったらしいけど、若松さんが監督ならしょうがないって事実を語ってくれたんです。それも8年ぐらい前になるけどね」
ー演じているのは、当時を知らない役者さんたちなのに、ドキュメンタリーを観ているようなリアルさがありました。どうやって演出されたんですか?
「俳優さんにはちゃらちゃらしたテレビみたいな芝居をするなって言ってたんですよ。ヘタなのにお芝居しようとするとますますヘタに見えるんだから(笑)。その代わり(地曵豪が演じる)森恒夫が喋ることを真剣に聞けば、自然にそういう顔になるから。その雰囲気を掴ませることが演出方法でしたね。山に入ってからは、みんな同じロッジで寝泊まりしてたけど、ストーブの周りに集まっては、自己批判したり、総括したりしてたらしいですよ(笑)。面白いのは幹部役の奴はストーブの周りにいて、下っ端の奴は隅っこの方にいくらしいからね(笑)。彼らは撮影が終わってからも2ヶ月ぐらいは、元に戻るのが大変だったそうです」
ーARATAさんも坂井真紀さんも、実際の人物にしか見えませんでしたよ。
「みんな今の子供たちで、普段は厳しい顔なんかしてないのに、撮影をやってると不思議と似てくるんだよね。ARATAなんかマネージャーまでビックリしてたから。今までと全然違うって。撮影ではメイクも衣装も小道具もいないから、衣装は俳優たちが自分でその時代のものを探してきたし、メイクもさせなかったんです。本当は俳優たちに小屋も造らせようかと思ってたんだけど、銃を持って重いなんて言ってるような状態だったから諦めました(笑)。最初は山なのにハイヒールを履いて来た女の子もいたからね。カチーンときましたよ。でも寒い中で助監督が裸足になって、自分の靴をその子に履かせたんです。そういうのを見て、俳優たちも真剣にやんなきゃダメだって気が付いたんじゃないかな」
ーあのリアルな緊迫感は、そんな状況から生まれたんですね。
「制作の子の日誌を見たら、僕は15分に1回は怒ってたらしいから。不条理なことばっかり言って。自分では何に怒ったかさっぱり覚えてないけど(笑)。若いスタッフばかりで当時のことを知らないから、バリケードひとつ作ろうとしても全然違う。結局、自分だけがわかってるからイライラするんですよ。でも1人では映画は撮れないからね。彼らが俺の手足になって、怒られながら、蹴飛ばされながら一生懸命やってくれたおかげで映画ができたんです」
ー今回は特に若いスタッフが多かったんですか?
「ずっと一緒にやってきた弟子たちは、今回はヤバいと思ったのか、ほかの仕事が抜けられないとか言って全員が逃げたんだよ(笑)。でも出来上がった映画を観てしまったと思ってますよ、きっと。今回は俺の映画作りを勉強したいっていう志のある奴ばっかりで、少人数だからフットワークがよかった。逆に50人もスタッフがいたら雪のなかでの撮影なんかもっと大変だったはずだし。予算が少なくて失敗できないぶん、みんな真剣になって迫力あるものが撮れた。人間は真剣になってやれば何でもできるんだよ。慣れっこになるのがいちばんダメ。撮影スタッフはたったの3人だったんだよ!? 照明はまだ助手の2人で、制作部も素人の女の子1人。プロは知ったかぶりして、何かしようとしてもすぐに“できません”っていうけど、素人は自分で考える。小屋での撮影はロウソクとランプだけで、クッキーの銀紙を反射板にしたりしてね。金なんてほとんどかかってないけど、あれだけの映像になるんだから」
"僕は集団が嫌だから、いつも1人で孤独な戦いをしてます(笑)"
ー主義や思想のことはわからない世代でも、人間ドラマとして興味深く観られる映画だと思いました。
「最後に少年が言うように、誰かが勇気を持っていれば、もしかしたらああいうことは起きなかったかもしれない。結局は連合赤軍も幹部が北朝鮮に行っちゃったり、アラブに行っちゃったりして、残った中間クラスが親分になったんです。ヤクザの世界なら親分や叔父貴がいなくなったのと同じ状態。それで2つの組が一緒になって権力を守ろうとした。人間が集団を組むと必ず権力者が生まれて、権力を守ろうとすると独裁者になる。それを映画でも言いたかったんだよね。僕はそういう集団が嫌だから、いつも1人で孤独な戦いをしてますよ(笑)」
ー権力を持った人間に実力がないと、さらに悲惨な結末になって。とても悲しいですね。
「森は一度、逃亡して(赤軍に)出戻ったことがすごいトラウマになっていたはずだし、恐らく永田洋子もいい奴だったんだと思う。いい奴じゃなかったらああいう運動はできない。だからこそ、殺した側も殺された側もどっちも悲しいんですよ。僕もこの映画を観るたびに、悲しい映画作っちゃったなぁって思いますよ」
ーこの映画が完成した今、どんな気持ちですか?
「撮っちゃった後は作品が1人歩きするだけ。自分としては満足してるし、次の作品をやりたいと思ってます。次は60年に山口二矢(おとや)が、社会党委員長浅沼稲次郎が渋谷公会堂で演説したときテロをやった17歳の少年の話。『テロルの決算』(沢木耕太郎)って本も出されてるけど、史実を編みながら、首つりして死んでいくこの右翼少年を撮りたいんです。前に『十七歳の風景』を撮って、この『あさま山荘』も少年の目で撮ったから、3本シリーズにしたいと思ってるんだけど。70年以上生きてくると、いい悪いとは別に、国を想い、17歳で死んでいった少年に肩入れしたくなるんだよね。僕自身が17歳になるちょっと前に東京に来た家出少年だから、その頃の気持ちがよくわかるんだよ」
ーではこれからもそういうのを撮っていきたいと?
「惚れた腫れたとか、ガンで死ぬ映画なんか観たくもないしさ(笑)。それで家庭がまとまっただの、死んだ人間が生き返ってきてだの、今はそんなんばっかり。そんなバカな映画を観せるから若者がどんどんアホになっていくんだよ」
ー監督は幾つになっても本当にエネルギーが凄いですね!
「エネルギーがなくなったらもう辞めますよ。肉体はどんどん弱ってくるけど、精神だけはずっと若くいたいと思ってるから」
ーそのエネルギーの源は?
「やっぱり欲でしょう(笑)。撮りたいっていう。好きなものは仕様がない。あれもこれも、撮りたいって思うものがいろいろあるし、映画を撮る以外になんにもできないから。俺はものすごくいい星の下に生まれたと、俺ほど幸せな奴はいないと思ってるんですよ。好きな映画を撮れて、それほど生活には困ってないし、適当に稼いでるし。それに不思議と映画を撮りたいと思ってると、だんだんそうなってくるんだよね」
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■若松孝二プロフィール
1936年宮城県生まれ。1954年、停学処分を3回受け高校を退学。家出して上京、17歳だった。新宿で映画の撮影現場の用心棒をしたことがきっかけで、テレビ映画の制作助手になる。1963年、26歳で『甘い罠』を監督し、ピンク映画と呼ばれるジャンルを確立する。1965年、若松プロ設立。『壁の中の秘事』がその年のベルリン国際映画祭に出展され、日本国内で波紋を広げる。1971年、イスラエル占領下にあるパレスティナのゲリラ闘争を描く『赤軍-PFLP世界戦争宣言』を発表。爆弾テロを描いた翌'72年のATG作品『天使の恍惚』とともに、映画が時代を作る、と評された。その後もピンク映画を撮り続ける傍ら、大島渚の『愛のコリーダ』(76)などをプロデュース。1981年以降は一般映画を手がけるようになり、『水のないプール』(82)、『われに撃つ用意あり』(90)をはじめ数々の作品を発表。欧米を中心に、海外でも高い評価を受けている。
■映画ストーリー
1972年2月、日本中がテレビにクギづけとなった。5人の若者たちが長野県の「あさま山荘」に立てこもり、警察との銃撃戦を展開したのだ。彼らは革命にすべてを賭けた「連合赤軍」の兵士たち。その後、彼らの同志殺しが次々と明らかになり、日本の学生運動は完全に失速する…。あの時代に何が起きていたのか? 革命戦士を志した若者たちは、なぜあそこまで追い詰められていったのか? あさま山荘へと至る激動の時代を、鬼才・若松孝二が描く。
第58回ベルリン国際映画祭・フォーラム部門で、「国際芸術映画評論連盟賞」と「最優秀アジア映画賞(Network for the Promotion of Asian Cinema[NETPAC])」を受賞。
製作・企画・構成・監督・脚本:若松孝二
ナレーション:原田芳雄
出演:坂井真紀/ARATA/並木愛枝/地曵豪/大西信満 ほか
シネマスコーレにて絶賛公開中
オフィシャルHPはこちら
■ 劇場公開スケジュール
公開中 シネマスコーレ(名古屋)
3月15日 テアトル新宿(東京)
3月22日 テアトル梅田(大阪)
3月29日 第七藝術劇場(大阪)
3月29日 京都シネマ(京都)
3月下旬 シネテリエ天神(福岡)
4月12日 シネマ5(大分)
4月19日 シアターキノ(北海道)
4月19日 桜坂劇場(沖縄)
4月26日 アートビレッジセンター(神戸)
5月3日 Denkikan(熊本)
TEXT/尾鍋栄里子
photo/花木 敬示(PRIVATES photo studio)








